5分だけの記憶に生きる叔父

認知症は全てを奪う

叔父が認知症になって15年近く経つ。最初はオクラホマ州の従姉妹を訪問していた時だった。まだコロンビア大学にいて、夏休みだったか。ゴルフ場から帰宅してない叔父を心配した従姉妹と探しに出たら、車を止めて途方に暮れて居る叔父を見つけたのが始まりだった。叔父は意識もしっかりしていたし、おかしいなー、ど忘れした。と笑っていた。あれから15年以上は立つが、今はかなり進行してしまった。とにかくうちの両親によると見て居るのが辛いそうだ。会話は長くて5分。それが終わると、不思議なのだが、完全に過去の5分を忘れてまた同じ質問を繰り返す。不思議なことだが、叔母が他界した2006年前後あたりから急速に記憶を失った。だから彼は5分の会話の中で、2006年以前の話を鮮明にするのだ。こんな感じだ。

叔父「WOLFは海外の大学どうだ?」

WOLF「もうずっと前に卒業したよ。」

叔父「あれ、そうか。まだ在学中だと思った。」

WOLF「もう仕事してるよ。WOLF嫁とも結婚したの覚えてる?」

叔父「覚えてるよ。熱田神宮とボストン2箇所で挙式したよな。」

WOLF「そうだね。」

一般の人が側から見て居ると、普通の会話に見えてしまう。しかしこれが恐ろしいのだ。5分ほど経過すると、ぷっつり忘れて同じことを繰り返す。1時間いればいただけ、同じことを繰り返す。そのやりとりを見ていて大変悲しくなるのだ。もし自分がこうなったらどうだろう?まるで彼は2006年以前を5分の限られた時間で繰り返し生きるよう強制されて生きて居るように見える。彼の子供達(WOLFの従姉妹たち)は彼の元を離れ、うちの両親が時折面倒を見て居る。施設にはいれる資格もあるようなのだが、3分の受け答えは大変まともとで、一見話すと本当に認知症なのかわからないし、生活できてしまうから入りたくないという。入りたくないという意思もしっかりして居る。掃除もできるし、料理もできる。驚くべきは、5分の記憶しか保てないのに、2006年以前のことは覚えて居るため、近くのスーパーや銀行に自分一人で行き、生活をして居るのだ。ただ今起こって居ることは記憶できないので、例えば予約をいれて行動することが難しい。そのため彼はメモやカレンダーに書いて、忘れないように動く。1日経てば完全に忘れた床屋の予約も。カレンダーをみると覚えて居るからいけるのだ。見ていて大変不思議な現象である。こんな形の認知症もあるのだろうか。ただ一人で地図を見て新しい場所に行くことは不可能だろう。そう考えると、人間がのShort Termメモリー(短時間の記憶力)もバカにできないことがわかる。彼のように昔行った長野県の渓流釣りの場所を覚えて居るので、そこに行こうと計画することはできても、1時間も立つと、今して居る行動自体の起点を忘れるため、長期の旅行が無理なのである。記憶がなくなると、昔の叔父であるのに、会話が成立しなくなることが大変悲しい。叔父を見て居ると人は記憶の生き物であり、記憶力がいかに人として、人間らしい生活を送るのに重要な要素を構成しているのかを思い知らされる。同時に、自分の記憶が正常であることに感謝する。しかしこうも思う。記憶は恐怖を消すようだ。なぜなら死ぬという時間軸を叔父は忘れてしまっているからだ。しかし、私はだからこそ、人生が有限であることに感謝している。短く限られた時間をきちんと理解して、毎日を生きていくことの大切さを、叔父から学んでいる気がするのだ。

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